メガネとの決別式

私は小さい頃から視力が弱かった。
覚えている中で最も幼い頃の記憶としては、幼稚園の頃連れて行かれた眼科で、視力が0.6と診断されたことだ。
当時遊んでいた友達の顔はあんまり思い出せないのに、自分の視力が良くないと言われたことだけは鮮明に覚えている。
その後も視力は下がり続け、小学校2年生でメガネをかけることになった。
自分からかけたいと言った記憶は全くない。
おそらく、黒板の文字が見えづらいと親に相談でもしたのだろう。
親は両方ともメガネをかけていた。
視力の悪さは遺伝するというから、私の視力の悪さは親の遺伝ということになる。
親は選べないのだから仕方がない。
というか、当時の私にはもうメガネをかけて過ごすという選択肢しかなかったのだ。
22年前、当時のメガネは今のようにデザイン性の高いオシャレなものはなく、ドラえもんののび太がかけているような黒ぶちのシンプルなものしかなかった。
本当はあったかもしれないが、親が買ってきたのだから他を知る由がなかった。
値段もレンズ1枚で1万円近くしていた記憶があるし、高価なものを買わせて申し訳ないと親に謝らなければならないであろう。
そんな流れで、物心がつく頃にはメガネをかけて生活をしていた。
思春期のほとんどをメガネと過ごし、黒ぶちメガネっ子にありがちであろう「のび太」というアダ名を例に漏れずつけられた。
裸眼で生活をしている人はどんな気持ちなんだろう。
小・中学校時代に何度も考えたものである。
高校生になる頃にはコンタクトレンズが発達し、レンズの酸素透過度が高くなった。
目への安全性が向上したので、親がコンタクトレンズの使用を許可してくれた。
かくしてメガネと決別出来ると喜んだ私であったが、現実はそう甘くはなかった。
私の眼とコンタクトレンズとの相性が良くなかったのだ。
猛烈な目の乾きと、毎晩のケアの面倒さに非常に頭を悩ませることになった。
しかしメガネっ子には戻りたくない。
それにコンタクトはこれまた高価で、当時1枚1万円以上していた。
自ら望んで買ってもらったコンタクトだし、簡単に諦めるわけにはいかない。
私の葛藤はその後延々と続くことになるのであった。
20歳になる頃、初めてレーシックの存在を知ることになる。
手術を受けることで、裸眼で生活が出来るというニュースに私の胸は高鳴った。
しかし当時、手術後の副作用が心配され、世間的にはその不安定性が大きな問題となった。
事実、現在でもレーシックの手術を行うと、老眼になるのが早まるとされている。
それに手術費用は膨大であり、大学生の私がやすやすと受けられるものではなかった。
また、その頃にはコンタクトレンズも2WEEKタイプ・1DAYのものが登場しており、使いやすさを感じていた。
眼の不快感はまだ多少あったが、人間慣れてしまうものでこんなもんかと感じられるようになっていた。
そんな私の転機となったのは、24歳になったある日、友人がレーシックを受けたという知らせであった。
ついに自分の身の回りに手術を受ける者が現れた。
なぜ手術に踏み切ったのか。
副作用は大丈夫なのか。
私は根掘り葉掘り聞いた。
どんなに大丈夫と言われても、実際に月日が経過するまでは信用してはいけない。
ある朝急に目が見えなくなってからでは遅いのだ。
そして半年が経った頃、私自身もレーシックを受けていた。
半年経っても大丈夫と友人が身をもって教えてくれた。
なぜたった半年で手術に踏み切ったのか。
結局、私は裸眼への憧れを捨て切れなかったのだ。
裸眼になりたくてなりたくてたまらなかったのである。
手術を受けた私の胸は、副作用への不安どころか、裸眼への期待感で満ち溢れていた。
クリニックの出口に置かれていた「メガネとの決別所」には感動を覚えた。
これからはメガネを使わなくて良いのだ。
のび太との決別である。
一人前になったのび太とお別れするドラえもんの気分だ。
いや、実際には決別できなかった。
長年お世話になったメガネをそんな簡単に捨てることは出来なかったのだ。
高いお金を払って買ったものだったので勿体ないという気持ちが勝ってしまった。
どこまでも小心者だなあと自分でも思う。
かくして、裸眼になった世界は本当に気持ちが良かった。
自分の目ではっきりと見えるというのはとんでもない快感なのだ。
物心ついた頃から夢であった世界を手にすることが出来た。
今やレーシックは手軽に出来る値段となった。
のび太で悩んでいる方には是非オススメしたい手術である。
もちろん、老眼が早まる覚悟はこの先しなくてはならないが。

MAIN MENU